今更、ブログをはじめる。

時代と逆行しているのかもしれない。

SNSに感じる、奇妙な窮屈さ

SNSでの発信に、どこか違和感があった。アルゴリズムを読み解いて、エンゲージメントを最大化する投稿——それは自分にはできなかった。言い訳かもしれない。でも、正確に言えば、やりたくなかったのだと思う。

あらゆる発信手段が民主化され、誰もが自由に発信できるようになったはずのこの時代に、SNSという箱の中で繰り広げられる投稿には、奇妙な窮屈さがある。「バズ」を意識して設計されたリコメンドアルゴリズム、それに沿って設計される投稿の数々。結果として、何が本当に価値のあるものかよりも、何が拡散されるかが優先される構造が出来上がっている。

90年代から2000年代の初頭、インターネットにはもっと別の空気があった気がする。個人サイト、ブログ、掲示板、さまざまな形で、それぞれのペースで発信が行われていた。箱はなかった。

タイムラインとドーパミン

テック企業、特にカリフォルニアに本拠地を置くその多くは、「自由」や「オープン」を掲げて生まれたはずだった。しかし皮肉にも、結果として彼らが提供しているのは、タイムラインに四六時中流れ込んでくる不確定な刺激だ。

ドーパミンは「報酬の予測誤差」で放出される神経伝達物質だ。次に何が来るかわからない時、脳はそれを楽しみ、探し続ける。スロットマシンが人を中毒させる仕組みと、本質的には同じだ。

SNSのタイムラインは、この性質を極めて正確に利用している。自分から能動的に何かを探しに行くのではなく、向こうから流れてくるものを受動的に消費する。下にスワイプするたびに、ドーパミンが小さく放出される。目新しさに、体が反応する。

全てを批判するつもりはない。SNSには確かに良い面もある。ただ、直感的に、自分はそこで主戦場を張ろうとは思えなかった、というだけの話だ。

長文を書くときに体の中で起きていること

久しぶりにこうして長文を書いてみると、体の中で別の感覚が起きているのに気づく。

ドーパミンのような、何かを求めて加速する感覚ではない。じわっと内側から湧いてくる、静かな充足感。これはおそらく、セロトニンに近い状態だ。

セロトニンは、持続的な安定感や内的な充足に関わる神経伝達物質だ。ドーパミンが「もっと、もっと」を駆動するなら、セロトニンは「今、ここで十分」を感じさせる。長文を書く、本を読む、手を動かして何かを作る、静かな時間を過ごす——これらはすべて、ドーパミンではなくセロトニンの時間だ。

セロトニンはドーパミンと比べて即効性がなく、派手さもない。だから現代のテクノロジーは基本的にセロトニンを最適化しない。スクロールで生まれるのはドーパミンだ。友人との深い会話や、一冊の本を読み切る体験で生まれるのはセロトニンだ。どちらも大事な神経伝達物質だが、どちらに偏った生活を送っているかで、人生の質感は大きく変わる

このブログが、時代に逆行する形

だから、このブログは時代に逆らう形を取る。

バズを目指さない。エンゲージメント最適化もしない。書きたいことを、書きたいペースで、書く。

主には精密栄養学と健康について書く。それがHIKYAKUというアプリを作った背景でもあるから。でも時々は、音楽や、カメラや、旅の話も書きたい。ガジェットの比較レビューではなく、良いスピーカーの音が迷走神経に与える影響のような、深い視点から日常を見直す書き方で。

書くのは、自分が深く心を動かされたもの。それだけが決めてあることだ。

届く人に届けば、それで

誰が読んでくれるかわからない。それでも書く。 万人に届かなくていい。届く人にだけ届けばいい。

そう思える時代の中で、静かに書き続けようと思う。


※ 本記事は情報提供と個人の考察であり、医学的助言ではありません。